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漂泊の航跡

大欧州を中心に、各地を訪ねた“航跡”を簡単にまとめてみました。
回る地球…

訪ねたことがある欧州の国々です…
1993年9月〜1994年6月
モスクワに滞在。
“ソ連政府奨学金留学生”という資格で査証を取得しての入国。本来は1991年〜1992年の予定だったが、ソ連体制の転換に伴う混乱で結論が出ずに2年を経てしまったもの。この制度による留学としては、名実ともに“最期”となった。以後「日ソ文化交流に幕を引いた男」と勝手に自称している…
滞在中は国会議事堂に戦車砲が撃ち込まれた騒動、芝居、アイスホッケーの試合、果てはロックコンサートなど何でも見ると同時に、地元の皆さんや、近所に住んでいた色々な国々の皆さんとの交流があった。
この滞在はかけがいのない財産となっている…

1994年1月
モスクワ滞在中「海が見たい」と少々気障なことを思い付く。ベルリンから来ていたご近所さんに「列車で1泊か2泊で色々な国々を訪ねられるし、経費も然程ではない」と言われたのに力を得て旅行を計画。
夜行列車でヘルシンキ(フィンランド)に出てからバルト海をフェリーで越えるルートでストックホルム(スウェーデン)へ。5日間の旅…
この旅を通じて、ピョートル大帝の登場する辺りまでは、バルト海の沿岸で圧倒的な力を誇示していたスウェーデン王国の歴史に触れる。更に“バルト海の王都”という典雅な趣のストックホルムが気に入ってしまう。

1994年2月末〜3月
モスクワに滞在する前から「一度は!」と思っていたバルト3国を目指す10日間の旅。旅の準備では、モスクワのラトビア大使館で査証を取得するのにもの凄い行列-2時間待ちの世界-で、氷点下15℃の中、少々難儀した…
リガ(ラトビア)へ夜行列車で出てから滞在し、夜行列車でタリン(エストニア)に向かって既に沈没事故で海の底に眠っているフェリーエストニア号でストックホルムへ向かった。ストックホルムからは冬季五輪終了直後の余韻が残るオスロ(ノルウェー)を往復とも夜行列車という凄まじく慌しい型で往復し、バルト海を24時間航行するレーニン号でサンクトペテルブルグへ入った。サンクトペテルブルグでは、慌しくモスクワ行きの列車に乗って戻った。

1994年4月
過去の2回で病みつきになった旅行に出た。14日間の旅。
西欧の復活祭ということで、ご近所の皆さんと昼間から散々酒を飲んでいる中、宴席の座興の如く小さな鞄を持って「一寸出掛ける」と言って出発した。列車でタリンに出た後、エストニア号で海を越えてストックホルムに入る。その後コペンハーゲン(デンマーク)へ南下し、出発前に取得したポーランドの査証が気になっていたところに、ポーランドの西端にあるスウィノシュチェという港との間にフェリーがあることを知り、夜行の便で上陸を果たし、折り返しの夜行で戻るということをやる。
その後コペンハーゲンからアムステルダムへ列車で向かい、アンネ・フランクの家、歴史博物館、海事博物館を見学していたが、イングランド中部のハルへ向かうフェリーの券を見つけ、思わず買ってしまう。ポーランドと同じパターンで上陸する慌しさだった。英国の入管では、少し不審な人物と思われたらしく、一番最後まで待たされて2週間の休暇旅行に不釣合いな小さな荷物を丹念に調べられた。係官たちは出て来る各地の絵葉書を「なるほど」と一枚ずつ愉しそうに眺め、挙句に「日本のパスポートは初めて見たぞ」と皆で回していた…
慌しいイングランド上陸の後、ドイツのハンブルグに入り、更に北のキール港からスウェーデンに寄港してからサンクトペテルブルグへ向かう船に乗った。48時間の予定だったが、フィンランド湾で氷に行く手を阻まれ、52時間の航海だった…
サンクトペテルブルグを少し見学した後、モスクワに戻った。

1994年5月末〜6月
7日間の旅。“白夜”を経験してみたかった。
ヘルシンキ、ストックホルム、オスロ、コペンハーゲンを訪ね、ヘルシンキでラトビア査証を取得し、タリンからバルト3国を縦断する列車に乗ってリトアニアのカウナスへ入った。
カウナスでは慌しく市内見学し、モスクワへ列車で戻った。

1994年11月末〜12月
ロシアから帰国後初めての10日間の旅。
フランスのパリへ出るつもりで東京からアムステルダムへ飛んだが、アムステルダム中央駅でオーストリアのウィーン行きの指定席を買ってしまった…
ウィーンからイタリアのヴェネツィア、スイスのジュネーヴと夜行列車で移動し、ブリュッセルに至ると、そこを拠点にアントワープやブルッヘも訪ねた。
そうしている間に帰国が近付き、アムステルダムから飛んで来た…

1995年9月
10日間の旅。「今度はパリへ」と東京からコペンハーゲンに飛び、直ぐに夜行列車に乗った。ベルギー南部、仏語圏の中心都市ブルージュで下車し、ナポレオン時代の武器などを博物館へ眺めている間に午後のいい加減な時間となった。荷物を預けた駅の周辺で居心地の良さそうな宿も見当たらないのでEU統合推進の条約で有名なオランダのマーストリヒトへ行くという列車に飛び乗った。30分と少しであった。
マーストリヒトの居心地が良かったので「オランダ各地が見たい」と思い付き、旧い港町ミデルブルグ、欧州一の巨大港湾を擁するロッテルダムを訪ねた。
そうしている間に帰国日程が気になったが、アムステルダム郊外のエイマイデン港からスウェーデン西部のイェーテボリ港へ向かうフェリーを発見。これに乗船した。24時間の航海。
イェーテボリからは高速船でデンマークのユトランド半島へ渡り、半島中部のオールフスからまた高速船に乗り、列車に乗り継いでコペンハーゲンに戻って帰国した。

1996年9月
“仕事の研修”ということでスコットランドを訪ねる機会を得た。9日間の旅。
コペンハーゲン経由でロンドンへ飛んだ後、夜行列車に飛び乗ってアバディーンへ向かう。ここで仕事をしたが、同時に幕末の長崎で活躍したトーマス・グラバーの故郷フレイザーバラとも出会った。
その後エジンバラ、グラスゴーを訪ね、すっかりスコットランド贔屓になった。エジンバラではスコットランドチームのラグビージャージのレプリカを購入した。
帰国前にロンドンへ寄ったが、大英博物館が午後開館だったので、遠出を試み、ドーヴァーへ出てみた。そこで見かけたフランスのカレへ行くフェリーがロンドンの地下鉄初乗りのような1ポンドで往復可能なことを知り、思わず慌しいフランス上陸を果たした。しかし、荒天で戻りの船が遅れ、ロンドンへ戻ったのは深夜だった。
ロンドンからコペンハーゲンへ飛び、ロスキレのヴァイキング船博物館を見学して帰国した。

1996年10月末〜11月
10日間の旅。リトアニアのヴィリニュスに友人を訪ねることが主目的となった。コペンハーゲン経由でヴィリニュスへ飛び、滞在した後コペンハーゲンへ戻り、各地を巡った。
コペンハーゲンからはドイツのベルリンを訪ね、その後国土を縦断してアーヘンに入り、更にブリュッセルへ出てからイタリアのミラノへ夜行列車で向かった。ミラノの駅では直ぐにトリノへ行く列車に乗った。トリノからフランスのリヨンへ入ったが、そこからはスイスのジュネーヴとローザンヌ、バーゼルを経由してドイツのハンブルグへ向かった。ハンブルグからコペンハーゲンへ列車で移動し、帰国の途に就いた。
帰国して間もなく、自宅の階段で転倒し、足首を骨折するという不覚…

1997年11月
数年来訪ねてみたかったルーマニア、スコットランドのフレイザーバラを一度に訪ねるという、欲張りな10日間…
運航を開始したばかりの札幌・アムステルダム便を利用した。アムステルダムで泊まってから朝の便でルーマニアのブカレストへ飛ぶ。
ブカレストからは列車で各地を巡った。黒海岸のコンスタンツァ、北のヤシ、ブラショフを巡り、ブカレストでかのチャウシェスクが建てた“人民の館”に驚嘆してアムステルダムへ飛ぶ。
アムステルダムで、ロンドンへの夜行の船が無いことを知り、ブリュッセルに出て、翌朝一番の海峡トンネル列車ユーロスターでロンドンを目指すことに。
ロンドンは素通り状態でグラスゴーへ飛び、列車でアバディーン、バスでフレイザーバラと移動し、フレイザーバラからはグラスゴーに泊まってから同じコースを戻ってアムステルダムから帰国した。

1998年12月
20日間の日程を組んだ。
ルフトハンザ機でフランクフルトに入り、一泊してからブカレストへ飛んだ。ブカレストでは直ぐに列車に飛び乗り、北部モルドバ地方の小都市ロマンへ向かい、友人を訪ねた。ロマンからブカレストへ戻ると、フランクフルトへ飛び戻った。
フランクフルトからはミュンヘン、ベルリン、リューベックを経て北部のキールへ向かい、リトアニアのクライペーダへ向かう船に乗った。
クライペーダで直ぐに夜行列車を捕まえてヴィリニュスへ向かい、1泊した後、5時間も遅れたことに立腹しながらモスクワへ飛び、旧交を温めた。モスクワからはタリンへ列車で出て、フェリーでヘルシンキへ渡り、すぐさま別なフェリーでストックホルムへ向かった。
ストックホルムは極短い滞在に留め、コペンハーゲン、を経てドイツのケルンへ夜行列車で向かい、ベートーベンの故郷ボンを訪ねた。その後ニュルンベルグを経てフランクフルトに入り、帰国の途に就いた…

1999年12月
15日間の日程だったが、最初は列車を乗り継いで秋田に寄ってから東京へ南下するという国内旅行をした。
東京からドイツのフランクフルトへ飛び「今度という今度はパリ」とパリ行きの夜行列車に飛び乗り、パリへ着いたのは良いが、駅で見かけたブリュッセルへ向かうThalys(タリス)に魅せられ、滞在を半日で切り上げて乗車してしまった…
ブリュッセルからアムステルダム、ドイツのデュッセルドルフを経てベルリンを訪ね、シュトゥットガルトに立ち寄ってから、スイス国内を経由してフランス南西部へ延々と列車を乗り継いでアルビに入った。欧州ではここの出身であるラペルースが宗谷海峡を発見したということになっていて、“ラペルーズ海峡”と呼ばれているので気になったからという訪問理由である。
その後パリを素通りしてルクセンブルグへ入り、ドイツのトリアー、マンハイム、ノイシュヴァンシュタイン城と訪ね、ミュンヘンに落ち着くとオーストリアのザルツブルグへも足を伸ばした。
そこからベルリンを目指し、2000年の到来を祝い、“少し飲み過ぎ”のままベルリンから飛行機を乗り継いでの帰国だった…

2000年12月〜2001年1月
年末年始の10日間で、“アメリカ経由のドイツ旅行”という無茶をした…
詳細はこちらにまとめたのでご覧いただきたい…

2001年12月〜2002年1月
年末年始の10日間で、“地球周航”という計画…詳細はこちらで…

主に国外への休暇旅行関係をまとめました。
これから先はどのような旅が待っているのでしょうか?


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